序 ― prelude

Prelude 反転する空

 

影が、影を呑み込んでいく。

逃げる。逃げるんだ。 黒革のブルゾンの背を叩く豪雨が、狂ったパーカッションのように鳴り響く。喉の奥が裂けそうだ。肺が焼ける。角をいくつ曲がったか、もう分からない。

「スコア異常者だ! 逃がすな!」

闇に潜んだ声が俺を追い詰める。足元は滑り、視界は霞む。右の額から流れる熱いものが冷たい雨と混じり合い、頬を伝った。血だ。 けたたましいサイレンが冬の夜空を切り裂く。背後で踊る真っ赤な光が、濡れた高層ビル群に乱反射し、世界を赤く染め上げていく。

(なにがあった……)

考えている余裕はない。ただ、断片的なノイズだけが頭から離れない。鈍い金属音。苦悶の叫び。冷たく輝く刃物。そして、誰かの悲鳴。

濡れた路面に足をとられながら、ビルの隙間から隙間へと滑り込む。冷気が肺を刺す。両足は鉛のように重く、指先の感覚がない。ブルゾンの袖にはどす黒い染みが広がっている。自分の血なのか、あるいは ――

「こっちだ!」

荒い呼吸を整えようと壁に背を預けた瞬間、まばゆい光が闇を裂く。

(もう終わりか)

諦めようとする意志に逆らい、身体は反射的に光を避けて走り出す。傷の痛みも、寒さも、背後からの怒号も、脳が勝手にシャットダウンしていく。ただ、逃げる。それだけが駆動するプログラムのように。

視界の端に、煉瓦造りの壁に囲まれた細い路地が見えた。行き止まりかもしれない。だが、イチかバチかだ。 赤の光が届かない、黒の世界へ。

「来たぞ! 確保しろ!」

行く先で赤い回転灯が明滅した。先回りされた。 横を見る。見上げるごとき高さの煉瓦壁。俺は絶叫に近い声を上げ、その先端に手をかけ、強引によじ登る。爪が剥がれる感覚。構うものか。 壁の向こうには、古びた非常階段があった。昇るんだ。

―― 脚が、動かない。

泥沼に沈んだように、スローモーションでしか動かない。どうしたっていうんだ。なら腕だ。え? 腕も動かない。重力だけが数倍になったように、世界が纏わりつく。 追っ手に捕まってしまう。動け、動け、俺の脚と腕!

「スコア異常者!」

ああ、そうだった。 俺は ―― スコア異常者だ。 最適化されたこの社会にとって、たまたま引っかかったノイズ。 削除予定の、ただの不具合。 失敗した。 奪われた。 全部だ。 本当は、被害者だったはずだ。 なのに、いつのまにか俺のほうが間違いになっていた。

手首の端末を見なくてもわかる。 今の俺の人間価値スコアは、数字と呼ぶのも恥ずかしい。 生ゴミの重さみたいなものだ。 価値がない。 だから名前も意味も、もう要らない。

…… もう逃げなくていいんじゃないか。 ふと、そんな考えが喉の奥からせり上がってきた。 捕まって、管理庁に連れていかれて、 脳を整えてもらえば、それで終わる。 どうせ、何者でもない。 いまさら自分なんて殻を守る理由もない。

そのとき ―― 背後で、舗道を鳴らす靴音が聞こえた。

「いたぞ! あのビルの非常階段だ! 処理班を回せ!」

…… いや、嫌だ。 理屈ではない。細胞が拒絶している。やっぱり逃げよう。どこまでも逃げよう。 肺が爆発しそうだ。額の傷から血が滴り、視界を赤く滲ませる。何度も同じ階段を、上へ、上へと、無限に続く繰り返し。

上階の扉が開く音が無情に響く。奴らだ。また先回りされた。 俺は横の通風口へ滑り込んだ。狭いダクトの中を這うように進む。息が詰まる。油と埃の匂いが鼻を刺す。 出口の格子を押し開け外へ転がり出る。高層ビルのバルコニーらしい。横殴りの雨とともに、強風が咆哮している。

行く手には、一本の綱が張られている。 高層ビルと高層ビルを結ぶ、頼りない一本の綱。もともと選択はない。道は、あの綱しかない。

綱に手をかけ、足を乗せる。揺れる。風が体を押し、雨が視界を奪う。 手を水平に広げ、ゆっくりと、慎重に歩む。 眼下には細い道路が微かに見える。高さの感覚は既に麻痺している。サイレンの音が遠くで響いている。

「おい! スコア異常者!」

綱の終点に赤い点滅が見える。まただ。また先回りされた。向きを変えて戻っても同じだろう。

(ここまでか)

そう思った、そのとき ――

「…… 諦めるな」

脳の奥底から、微かな声が響いた。 誰だ? どこにいる? しかし、もう逃げ場所はない。 揺れる綱の上でバランスを崩し、足が空を蹴る。

その瞬間、世界は反転した。

落ちていくはずの道路もビルもない。 俺の足元には、突き抜けるような青空が広がっている。 綱を踏み外せば、俺は永遠にこの青空へと落ちていくのか。

死ぬことも、許されずに。