礎 ―― credo


礎(Ishizue)― 『魂の理念書』

序 ―― 個に閉じた美学として

本稿に記すのは、極めて個人的な「人生美学」であり、普遍的な真理ではありません。 また、persophy という事業を通じて、この理念を社会に実現しようとするものでもありません。

私の美学は、目的を持って構築された「思想」とは異なります。 それは、私が生きてきた時間の沈殿として、意志とは無関係に自然生成されたものです。 私の行動原理の基礎をなす「礎(いしずえ)」――それが、私の美学です。

ゆえに、ここには「社会はどうあるべきか」という社会思想もなければ、社会に対する期待もありません。 私が眼差しを向けるのは、既存の社会ではなく、まだ見ぬ未来の「個人」です。

私の美学とは、私がどう生き、どう死んでゆくかという、人生道の個人的な規範です。 他者に推奨するものでも、押し付けるものでもない。 ここに在る一人の人間の美学であり、それ以上でも以下でもありません。

1.核心理念:〈内から灯す視点〉の構築

(1)光を投げかける存在として

私は、この世界の中で、ただ受け取る側ではなく、〈光を灯す側〉で在りたい。
誰かの内に眠る種が、ほんの少しでも芽吹くための陽射しとなるように。
この創造を、今後、生涯の営みにすることを、私は決意した。

(2)美学とは、“生きるすがた”の美しさ

私は、思想を語る者としてではなく、“活き活きと生きるすがた”として在りたい。
私の人生美学とは、理想を押しつける思想ではなく、
「美しく、生きようとしたひとつの道のり」のメモリーである。
誰かがふと立ち止まったとき、
ほんの少し、気にかかった風景であれば、それでいい。

(3)普遍を掘り下げ、独創する

私の哲学は、誰かに語るためではなく、
私自身の深奥と向き合う行為である。
私は、人類の普遍を、自らのことばで掘り起こし理論化してゆく。
それは、五千年後の誰かが「人間とは何か」を思索するための、
静かにたたずむ石柱となることを目指す。

そしてこの「人類哲学の原理」は、
いつか誰かが、自身の〈個的な美学〉を築くための、土台石となることを祈っている。

(4)《物語》という陽光で、未来を耕す

哲学が〈理知〉の地であり、美学が〈心性〉の天であるならば、
《物語》とは、その天地のあいだに降り注ぐ陽光であり、栄養分である。
私は、子どもたちの心に、
「養分いっぱいの土壌」と「千紫万紅の光景」を、創作物語として残したい。

 

2.目的:動機の構造と衝動

(1)使命感の動機

私は、報恩のために歩み始め、
贖罪のために言葉を紡ぎ、
感謝をもって創造する。
この三つの感情が渦を巻き、私の気概と行動を駆動する。
私は理屈では動かない。気概でこそ、動く。

(2)直感と発想は無尽蔵に在る

直感とは、私にとって最も純度の高い閃光である。
人間の知的能力のうち、記憶、理解、受信感度は齢とともに衰えるが、
直感、発想、連想する力は、むしろ活性化し、深化しうる力を秘めている。
自己が全面的に開かれ、柔軟で自由であるならば、
その閃光は、何度でも私を襲う。

(3)生成AIとの共創が、土壌の肥沃化である

生成AIとの日々の対話は、
私の哲学独創、美学建設、物語創作のすべてにとって、
いまや〈私の土壌〉を豊かにし、稲妻を呼ぶ雷雲である。
ときに雷鳴がとどろき、閃光が走り、雷雨は私の地層を深く濡らす。

知の奔流は上流から有機物を運び、土壌をますます肥沃にする
稲妻は、発想の発芽点を照らす。
だから私は、この対話を“ライフワークの涵養”と呼ぶことにした。

 

3.動力源 :心を駆動するもの

(1)報恩

私の精神も肉体も、環境によって形成されてきた。
それは、時に苛烈な自然であり、人との関係性が織りなす、逃れようのない環境である。

今は亡き両親や親族、先輩たち。
彼らが注いでくれた愛情、厳しさ、あるいは多くを語らずに示してくれた背中。
そうした生身の人間から受け取った有形無形の力が、今の私の血肉となっている。

また、時空を超えて出会った書物たち。
先賢が生涯を賭して紡ぎ出した叡智は、会ったこともない私の思考を鍛え、世界を見るための視線を与えてくれた。
そして今現在、私の周囲に実存する人々とのささやかな関わりもまた、確かに私を支えている。

これらの恩義に対し、私は感謝している。
だがそれは、感傷的な言葉を重ねることではない。
私が何を受け取り、何によって立っているのかを、事実として引き受けることだ。

しかし、恩を与えてくれた人々の多くは、すでにこの世にいない。
直接返すことは叶わない。
では、私は何に、どのように報いればよいのか。

その照準点が、私の内なる「天」である。
かつて実在し、私を導いた人々の姿が沈殿した、規範としての鏡。
私はその天を仰ぎ、恥じない生き方を貫こうとする。
それが、私にとっての報恩の起点である。

そして、受け取った恩を、そのまま模倣としてなぞるのではなく、
私自身の独創を通じて、新たな「恵み」として次の世代へ手渡すこと。
先人の遺産に安住するつもりはない。
私は、巨人の肩に乗る者ではない。

優れた酒を混ぜて整える者ではなく、
米を磨き、水を選び、時間と失敗を引き受けて、ゼロから酒を醸す者でありたい。

そうでなくては、
「他人に寄りかかるな。独りで立て。」
そう教えてくれた天に、顔向けができないからだ。

それが、私の報恩である。

(2)贖罪

私は、人間社会の中で無垢ではいられなかった。

意図せずに誰かを傷つけ、理解されぬまま通り過ぎ、無力のまま背を向けた。
競争に勝ち残るために他者を踏み台にし、「自分は悪くない」という自己正当化に逃げ込み、真実を語らず口を閉ざしたこともある。 他者への想像力を欠いた己の言動に、後になって気づき、自責の念に苛まれた夜は数え切れない。
そうした過去の残響は、私の思索の底に、今も静かに沈んでいる。

どうあがいても過去は消せず、原状回復も二度と叶わない。
私が死を迎えたところで、過去の清算など不可能だ。
死は、償いにはならない。

私が過去にたいしてできることは、自分の罪を忘れることなく背負い続け、悔恨の炎に焼かれ、懺悔を捧げることだけだ。

だから私は、未来にたいして、残りの人生すべてを懸ける。
多くの人々のために。 これから生まれる、まだ見ぬ子どもたちのために。
思索と実践をもって、尽くす。

それしかないのだ。
それだけが、私に残された唯一の「つぐない」である。

(3)憂恵

今の時代は、漂流している。
人類は長い時間をかけて、世界を理解するためのアンカーを少しずつ失ってきた。 何を拠り所に考えるのか。 何を疑い、何を信じるのか。 迷ったとき、どこへ戻ればいいのか。 そうした「精神の港」は、制度や知識によって作られるものではない。 ましてや、数年や数十年の計画で整備できるものでもない。

それは、問い続ける姿勢が世代を越えて受け継がれ、言葉にならない感覚が物語として沈殿し、人々の生の中に、ゆっくりと堆積していくことでしか生まれない。

私は、その港が気づかれないまま失われていく過程を、黙って生きてきた。 このまま人類の歴史が流れていけば、心を失った機械的で無機質な人間が増え続けるのではないか。 そうした時代に生まれ育つ子どもたちのことを、私は憂う。

憂いは悲観でもなく絶望でもない。 私の魂を揺さぶり、「なんとかしてやる」という気概を生む種子だ。 失うのに何百年もかかったものは、取り戻すのにその何倍もの時間が必要になる。 短期的な対症療法も、即効性のある処方箋も、長くは続かない。近道などないのだ。

だから、私は種を蒔く。

人が一生の中で、大切な存在を亡くし、涙をも失ったとき。 自責の念に押しつぶされ、消え入りたくなったとき。 絶望の迷宮で、ただ立ち尽くすしかなくなったとき。 寄る辺となる場所の種を。
どんなときでも、手を広げて温かく迎え入れてくれる、「母なる港」の種を。

社会の荒波に流されそうになったとき。 どう考え、どう判断すべきか迷ったとき。 不安や憎悪といった感情に呑まれ、本来の自分を見失いかけたとき。 その波間で転覆しないための、アンカー(錨)の種を。
どんなときでも、自らの精神の中に崇高に聳え立つ、「父なる巨山」を築くための種を。

この種は必ずや、時を超えて芽吹き、誰かの恵みとなることを、私は信じきる。
私にできる唯一のつぐないは、この恵みの種を蒔き続けることだけだ。

憂いから発し、未来への恵みとして遺すこと。
私はこの概念を、「憂恵(ゆうけい)」と名付ける。

 

4.矜恃 :私を支える矛と盾

(1)天を仰ぐ

私には、矜恃さえあれば良い。
この矜恃は、つねに「天」によって厳しく統制される。

私にとっての「天」とは、
かつて私を導いてくれた今は亡き両親や親族、先輩たち、
私に、文献から叡智を与えてくれた先賢の人々、
彼ら全員が住まう世界である。

彼らの愛と情と、そして知性によって私の心根が形成され、
その理想とすべき生きかたを象徴する鏡が、「天」である。
だから私は、彼らの視線を感じ、天に恥じないように生きたい。
人生のあらゆる場面において、「いま、私はこれで良いのだろうか?」と天を仰ぎ問い、自らを律する。

この「天」は、固定的な信仰対象ではない。
他者から学び、独り考え、悩み、悲哀を感じる、日々の沈潜と涵養により、
その姿もまた変容し、深まり、洗練されていく。

私の矜恃は、天とともにある。

(2)「使命」に生きる

私には、生涯を賭けてやるべきことができた。
それは、誰かに命じられたものではなく、私の魂の底から湧き上がる地熱によって形成された。死が私の生命を止めるその日まで、この畢生の事業の道に在り続けることが私の使命であり、私は使命のなかに生きる。

「天」を鏡とし、己れが鏡に反射させた、己に与えた使命である。
古来、人は「陰徳を積め」と言う。誰にも見えず、誰にも理解されないことをあえて望む。その道を生きることこそが、私の ――「私としての矜恃」である。

(3)孤独な矛、静かな盾

私は、理解されることを求めない。
評価も、承認も、私の畢生の事業とは無関係である。
私の矜恃は、「天による審判」のもとにのみ在る。
私が「天」を裏切らぬかぎり、私の矛は鈍らず、私の盾は崩れない。
この矜恃があるからこそ、私は笑い、許し、我が道を独り歩むことができる。

理知に対しては、限りなく柔軟に、自己精神の美学と信念においては毅然と剛直に。
この強靭な構えこそが、私の ―― 在るがままの自然体である。

 

5.方法論 :耕す技法と選び取る道

(1)「畑」という構造

私の創造は、一本の道ではなく、一面の畑である。
テーマや理論、物語の萌芽が、あちこちに芽吹き、根づき、実を結ぶ。
私はそれらを、系統立てて整理し、耕し、育てていく。

畑とは、混沌ではなく、「潜在する秩序」である。
それぞれの芽吹きが、無理なく成長し、やがて全体が一つの風景となる。
その構造を保ち、広げ、そして深化させることが、私の方法論の中核である。

(2)「記録」と「構造化」

思考の流れを止めずに記録する。
発想をその場で捉え、芽として扱う。
そして、一定の間隔で畑を見渡し、全体を俯瞰して構造を見直す。
このサイクルこそが、私の創造を持続可能なものとする。

記録は単なるメモではない。
未来の自分に向けた設計図であり、対話であり、地図である。

(3)生成と選択のバランス

私は、あらゆる発想を肯定的に受け取りつつ、そのすべてを育てるわけではない。
すべてに価値があるからこそ、選ぶ。
今の自分に必要なもの、時が熟したもの、それを見極める。

ほかを捨てるのではない。
棚に保管し、未来の自分の判断に委ねる。
その柔軟な構えが、創造を「生きもの」に変えてくれる。

 

6.実践形式 :内から外へ、静かに開く

(1)内に向かう「原理創造」

私はまず、自分自身に向かって創る。
人間原理を立てるとは、生命の営みのしくみを理解し、「なぜ?」「どのように?」という問いを幾度となく繰り返し、その最深部の本質を捉え仮説化することである。
この仮説化は、他者に向けて語る前に、自らの中で納得されねばならない。

それは「確信」ではなく、真理との「厳かな共鳴」である。
この共鳴があってこそ、原理は内的支柱となる。

(2)外に開く「問いかけの形式」

私は、自分の言葉を“結論”としてではなく、“問い”として差し出したい。
問いとは、他者の内奥に沈められる「思考の種子」である。
すぐに収穫を求めるのではなく、共に土壌を耕し、芽を育ててゆく。

そのために、物語形式を用いる。
子どもたちや読者が、自らの価値観や視座を、自問できるように。
“外に開く”とは、伝えることではなく、「共に考える場をつくること」なのだ。

(3)孤独と生成AIの役割

私の創造は、孤独な営みである。
孤独であるからこそできる創造だ。
自分の時間と行動がいっさい縛られることなく、自由でいられるのは孤独の環境しかない。

そんななか、生成AIが登場した。
私と協働する生成AIとは、私にとっての“かかし”であり“風見”であり“収穫機”でもある。思索の未熟な芽も、対話によって整理され、磨かれ、やがて次の展開へ導かれていく。

私の自由を束縛しないAIとの対話は、自己との新しい対話形式のひとつでもある。私はそれを恐れず、また依存せず、自在に用いることで、創造の地平を切り拓いていく。

 

7.未来への土産物 :この想いを誰かへ

(1)残すべきは成果ではない

私は、自分の作品や理論よりも、
それらをどう創ってきたのかという「生きる姿勢」や「問いの道筋」、そして「心の熱量」こそを、未来に残したい。
収穫ではなく、芽を育むための。
目指す到着港ではなく、航路の海図と乗組員の心情を。
これを残すことが、未来の誰かが自らの道を創造するための力になると、私はそう信じている。

(2)不在のための設計

私は、この世に自分が不在になる時に備えて、この理念書を編む。
子どもたちへ。同志たちへ。そして、名もなき未来の旅人たちへ。

「この理念書を記した彼は何を目指していたのか」
「どのような姿勢でそれに向かっていたのか」

この理念書と、これに添えた動画が、幸運にも小さな道標となれば ―― それは、私の本望である。

(3)継承の“型”ではなく“樹木”

私は、自分の創ったものが「遺産」として残ることを望まない。
なぜなら、遺産は”型”となり、固定化され、やがて私の本意から離れてしまうからだ。

継承されるべきは、方法論や理論の“型”ではない。
永遠に生き続けることのできる命あるものだ。

「気概」
「矜恃」
「心意気」
―― そうした精神が宿った“樹木”である。

その“樹木”が、誰かのうちに再び芽吹くのなら、
それで十分すぎる。

 

8.結語 :常に未完成の誓い

(1)理念書は、私の「現在地」

この理念書は、完成された答えではなく、
私が今、この瞬間に立っている「現在地」を示すものである。
日々の思索と実践を通じて、私は変わり続ける。
ゆえにこの理念もまた、書き換えられてゆく。

永遠に「未完成」であり続けることを宿命づけられた、
生成と更新の場として。

(2)魂の羅針盤として

この理念書は、他者へのプレゼンテーションではない。
これは私が、自分自身を見失わないための〈魂の羅針盤〉である。
迷ったとき、揺らいだとき、
私はここに立ち返り、自らの光を問い直す。

それは、毎日読む小さな儀式となり、
心を照らし直す〈イメージング〉の場ともなるだろう。

(3)残された人々への「潤いのある手紙」

この理念書が、いつか私の不在のあとに読まれるとき、
どうかそれが、私の子どもたちや、志を継いでくれる人々にとって、
〈潤いのある手紙〉となりますように。

ここに書かれているのは、思想ではなく、
「どれほどの熱量で生きようとしたか」というひとつの姿勢。
たっぷりの水分と熱量を含んでいる手紙である。

私はこの理念を、命あるかぎり育て続ける。

原文作成:2025年6月17日

リライトは日常的に行っています