義 ―― purpose


義(Gi)― persophy の 存在意義

このパーパスは、成功や成長のためのスローガンではない。
ましてや、社会を良くするための「正しさの主張」でもない。
persophy がここに在る理由――それは、人が「個」として生きるとはどういうことかを、問いとして差し出し続けるためである。

人は、答えを与えられることで救われるのではない。
自分自身で考え、選び、引き受けることでしか、生きる実感には辿り着けない。
persophy は、そのための答えを用意しない。
代わりに、思考が立ち上がるきっかけと、問いに耐える場をつくる。

これは啓蒙ではない。
導きでもない。
ひとりの人間に向けて差し出す、静かな呼びかけである。

 

1.巨視的視座:悠久の時空と泡沫の生

宇宙的視座と個のリアリズム

138億年とされる宇宙の開闢。 35億年前に地球という惑星に芽吹いた生命の種。 そこから気の遠くなるような時間を経て、わずか40万年前にホモ・サピエンスが現れ、5万年前に認知能力の飛躍的な変革が起き、知性の爆発的進化が始まった。

しかし、この進化のドラマも、宇宙という尺度においては瞬きにも満たない。 隣のアンドロメダ銀河でさえ250万光年の彼方にある。この圧倒的な時空の広がりを前にしては、人類史のすべてなど砂粒のひとつに過ぎず、ましてや人間社会の喧騒や、一人の人間の一生など、観測不能なほどの微細な揺らぎでしかない。

宇宙の理から見れば、人の一生は虚無に等しい刹那でしかない。

だが、ここに一つの〈非合理なリアリズム〉がある。 宇宙にとっては無に等しい、その小さく短い一生こそが、その生を生きる当事者にとっては、宇宙のすべてにも匹敵する最大の世界であるという事実だ。

いかにちっぽけであろうとも、その者にとっての世界は、その者の〈自己〉の内側にしか存在しない。 この絶対的な極小さと、主観的な無限の重み。 我々はこの耐えがたい矛盾を抱えながら、いかにしてその短い生に意味を灯すべきなのか。

次に、現代という一点でその問いはさらに切実な形をとる。

 

2.現代社会の現象:最適化された機能と、喪失した羅針盤

現代社会の現象

悠久の時空から、現代という一点に視座を降ろす。 そこには、高度に発達した文明と、かつてないほどの安全と快適さを手に入れた人類の姿がある。 しかし、その繁栄の影で、奇妙な精神の変容が静かに進行している。

合理という名の刃は、人間本来の厚みを、音もなく薄片にしていく。

損か得かですべてを測る功利の思想は、人間関係や子育てさえもコストパフォーマンスの対象とし、効率の悪い感情や沈黙を排除する。 正しさの基準は、内なる道徳や美学から、外なる法律やルールへと委託され、人々は自らの羅針盤を持たぬまま、システムに依存して善悪を判断する。 言葉にできない機微は〈存在しないもの〉とされ、成果という数値だけが個人の価値証明となり、プロセスにあるはずの物語は切り捨てられる。

そして、最も危うい現象は、自己の不在である。
外部の評価が自己を侵食し、気づかぬうちに自分の中心が空洞になっていく。 その姿は、まるで自ら進んで〈最適化された部品〉になろうとしているかのようだ。

そこに強烈な絶望があるわけではないが、希望もない。
あるのは、意味などなくていいと笑う、薄く静かなニヒリズムだ。
それは絶望ではない。
だが、希望を欲しがる力そのものが、すでに摩耗している。

すべてが合理的に説明され、すべてが効率化されたこの世界で。 我々はなぜ、これほどまでに満たされず、自身の輪郭を見失い続けているのか。

──その答えは、もっと深い場所に潜んでいる。

 

3.課題の本質:精神的土壌の枯渇と、参照点の喪失

課題の本質

現代を覆うこれらの現象は、単なる時代の変化や、個々人の心がけで済む問題ではない。 産業革命がもたらした労働と時間の機械化、情報革命がもたらした思考の自動化。この歴史的連なりの果てに、我々は構造的に、ある決定的なものを失いつつある。

それは、荒波の中で個を繋ぎ止めるための「普遍的なアンカー(碇)」である。

かつて人間は、自らの内側に〈重し〉と〈鏡〉を持っていた。 歴史や神話という垂直の鏡に己を映し、時間をかけて培った教養や美意識を重しとすることで、外部の嵐に流されない「個」を保ってきたのだ。

しかし、加速する現代社会システムは、この内的なアンカーを無用なものとして切断した。その結果、人間の精神構造に二つの致命的な変質が起きている。

第一に、「判断の外部化」である。 内なる良心や美学に問いかけるという、手間のかかる回路は遮断された。代わりに、アルゴリズムによる推奨、数値化された評価、あるいは法律という外部の尺度だけが、正しさの基準として採用される。自らの羅針盤を捨て、外部のナビゲーションに操縦を委ねた時点で、人間は自律的な存在であることをやめる。

第二に、「プロセスの形骸化」である。 土壌を耕し、種を育むという生成の苦しみは、非効率として切り捨てられた。結果という果実だけが即座に求められる世界では、経験の厚みも、沈黙の価値も、言語化できない情緒も、すべて測定不能なノイズとして消去される。

アンカーを失い、判断を外部へ委託し、厚みを削ぎ落とされた人間。 その姿は、もはや生命体というよりも、反応だけを求められる、システムの端末のような存在へと近づいている。

ゆえに、問題の本質は明白である。
我々は、不安なのではない。立ち返るべき「内なる港」と、そこに下ろすはずの「アンカー」を──いつの間にか、文明の背後に置き去りにしてしまったのだ。

 

4.解決としての企画:〈自己〉の港の再建

失われたアンカーの再建

文明がその背後に置き去りにした、「内なる港」と「普遍的なアンカー」。

本企画の真の目的は、その再建にある。 これは娯楽ではない。精神の基盤を未来へ渡すための、静かなるインフラ事業である。

そのために、私は物語を通じて、失われた二つの機能を取り戻す。

第一に、「垂直の鏡」を再び掲げること。 138億年の宇宙と、40万年の人類史。 この圧倒的な深度を内包した物語は、合理と速度に支配された現代の地表に、絶対的な座標軸を差し戻す。 五千年先の子どもたちを視野に含むこの視座は、水平方向の終わらぬ比較を無効化し、人間を再び〈高きもの〉へと繋ぎなおすだろう。

第二に、「肥沃な土壌」を耕すこと。 沈黙、機微、生成の痛み、言語化できない情緒。 効率化の刃ですべて切り捨てられてきたこれらのノイズを、物語という柔らかな手巾で磨きなおす。 問いを安易な答えに結ばず、問いのまま育てる行為。それこそが、砂漠化した内面を再び豊穣へと導く栄養分となる。

一人の短い生は、宇宙においては微細な揺らぎに過ぎない。 だが、その刹那が当事者にとっての宇宙のすべてであるならば、その世界には帰るべき港が必要だ。

だから私は、その港に陽光を注ぐ物語を編む。

かつて先賢たちが私に光を灯してくれたように、未来の誰かの内側に、哲学と美学の種火を残したい。

この航海は、技術でも流行でもなく、「魂の理念」によって駆動されている。 五千年という短くも長い時間の中で、この営みは、思考の参照点となる石柱を立て続けるだろう。 結論ではなく、深く生きるための「問いの道筋」を未来へ手渡す、小さなアーカイブとして。

アンカーを下ろせ。 港は、ここにある。

この物語が、今を生きる共鳴者と五千年後の旅人を結ぶ、ひとつの灯台となることを、私はここに静かに誓う。